2008年02月13日

2002年ワールドカップの無念

ほうほう、こんなことだったですね。
たいぶ昔に習ったことだから忘れてしまっていました。

大会招致の経緯
2002年に日韓で開催された第17回ワールドカップは、1986年に当時のジョアン・アベランジェFIFA会長(ブラジル)がこれまで欧州と南北米大陸で交互に行われてきた開催地に、初のアジア・アフリカ開催を打ち出し、まもなく会長から打診を受けた日本サッカー協会が各国に先駆けて招致に名乗りをあげた。日本は、低迷する国内サッカー界の活性化も念頭に置き、1988年ワールドカップの日本開催を構想し、1989年に各国に先駆け招致準備委員会を組織する。日本はワールドカップを、より平和の祭典としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップの実績と、平和で安全、豊かな経済、政治的安定、自由と民主主義、世界の先進国である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。

一方、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国はアジア初を賭け、1993年11月立候補を表明し1994年に招致委員会を組織した。招致活動に出遅れた韓国は、現代財閥を中心に韓国政財界をあげての招致活動に乗り出し、南北朝鮮共同開催案を持ち出すなどして日本の招致活動に対抗した。1995年2月、両国は正式に立候補を表明し、9月末にワールドカップ開催提案書を提出する。結局、日韓以外の立候補はなく、アジア2ヵ国だけが正式に立候補した。

開催国は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本を推していたFIFAのアベランジェ会長の会長派と、欧州FIFA理事派の勢力が、次期会長職を巡って対立し始める。アベランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは、日韓の共同開催を強く推進、南米の会長派は日本単独開催を支持し、アフリカ理事らの動向が投票を左右することとなった。こうした状況の中、日韓共催案がいよいよ現実味を帯び始める。

直前になって欧州理事らが、欧州リーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派となった。開催国を決定する投票日前日の定例理事会前のパーティー会場で、アフリカ理事らとの歓談から、趨勢を悟ったアベランジェ会長は、定例理事会で日韓両国による共同開催案を自ら提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。

結局、投票を待たずして、1996年5月30日FIFA理事会は、「ワールドカップは単独開催」という規則を無視し、FIFA事務局長のジョセフ・ゼップ・ブラッターの名で、ホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し日韓共催を打診する文書を送った。欧州アフリカ理事らの動向を掴めなかった日本はまさかの共同開催決定に涙を飲んで受け入れを表明。翌日の5月31日、FIFA、日本、韓国による共同開催決定の会見が開かれた。日本が受け入れを拒否した場合は、韓国の単独開催か、開催地決定の延長と中華人民共和国での開催の可能性があった。決着はアベランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物でもあった。アベランジェ会長は名誉ある退席を選んだのである。程なく会長職を引退した。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月08日

劉邦の任侠生活

この背景には何があったのでしょうか。

思わず調べちゃいました。

反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる任侠の徒であり、家業には手を貸さず、酒と女を好んで酒場に出入りしていた。縁あって沛の東にある泗水の亭長(犯罪取締り)という役職に付いたが、ここでも真面目に仕事をせずに、むしろ役人をからかうような言動が見られたので、沛の役人のほぼすべてが劉邦を軽蔑していたという。この役人の中に後に劉邦の覇業をたすけることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦をあまり高く評価していなかったようである。しかし何故か人に好かれる性質があり、仕事で失敗しても周囲がかばったり、劉邦が飲み屋に居れば人が集まって、いつのまにか店が満席になった。また、この任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。

ある時に劉邦は夫役で咸陽に行った事があったが、そこで始皇帝の行列を見て、「ああ、男たるものああ為らなくてはいかんなぁ」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに言った「あいつに取って代わってやる!」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。

あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に銭を持ってきていたが、あまりに集まった人が多いので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうとしていた。そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と宣言した。驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭などもっていないのを知っていたので、「劉邦は前から大法螺は吹くが、実際に成し遂げた事は少ない。(だからこのことも本気にしないでくれ。)」と言ったが、呂公は構わず劉邦を歓待し、その人相を見て劉邦を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉である。

妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら貧しく懸命に生きていた。ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることが出来ない。」と言い、劉邦は大いに喜んだという。ただし、この話はおそらく作り話であろう。『史記』には他にもいくつかの劉邦が天下を取る事が約束されていたとの話を載せているが、それらも同趣向である。ただそれらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は漢が火徳の王朝ということを自称することに繋がっている


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年09月19日

ヤクルト古田、涙で引退会見

監督業も選手としても退任、引退となった古田ですが、結果はともかく「良くやった!ご苦労様!」と労いたい思いです。彼自身、重大な責任を感じていますが、球団側の責任の方が大きいと思います。
そもそも、選手兼監督なんて簡単にできっこないですよ。あの涙を見て、孤独に苦しみ続けたんだろうなと?同情的な気持ちになりました。


『参照記事』

ヤクルトの古田敦也・兼任監督(42)は19日、都内で記者会見し、今季限りでの監督退任と現役引退を発表した。「成果を挙げられなかったのは力不足。素直に反省している」と悔しさをにじませた。

 古田兼任監督はこの日、堀澄也オーナーに報告。中日戦(神宮)の試合前、ユニホーム姿で会見に臨んだ。

 球団側の続投要請を固辞した理由として強調したのは、不振のけじめ。「プロに入って(18年間)、最下位というのは一度もなかった。21年ぶりという球団史でも非常に悪い出来事。監督が責任を取らず、人に負わせる訳にはいかない」と、ファンを失望させたことをわびた。

開幕当初から、3位までが進むクライマックスシリーズ出場が果たせなければ、けじめを付けるべきと考えており、7月に続投要請を受けて以降も低迷が続いたため、辞意を固めたという。