2002年ワールドカップの無念
ほうほう、こんなことだったですね。
たいぶ昔に習ったことだから忘れてしまっていました。
大会招致の経緯
2002年に日韓で開催された第17回ワールドカップは、1986年に当時のジョアン・アベランジェFIFA会長(ブラジル)がこれまで欧州と南北米大陸で交互に行われてきた開催地に、初のアジア・アフリカ開催を打ち出し、まもなく会長から打診を受けた日本サッカー協会が各国に先駆けて招致に名乗りをあげた。日本は、低迷する国内サッカー界の活性化も念頭に置き、1988年ワールドカップの日本開催を構想し、1989年に各国に先駆け招致準備委員会を組織する。日本はワールドカップを、より平和の祭典としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップの実績と、平和で安全、豊かな経済、政治的安定、自由と民主主義、世界の先進国である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。
一方、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国はアジア初を賭け、1993年11月立候補を表明し1994年に招致委員会を組織した。招致活動に出遅れた韓国は、現代財閥を中心に韓国政財界をあげての招致活動に乗り出し、南北朝鮮共同開催案を持ち出すなどして日本の招致活動に対抗した。1995年2月、両国は正式に立候補を表明し、9月末にワールドカップ開催提案書を提出する。結局、日韓以外の立候補はなく、アジア2ヵ国だけが正式に立候補した。
開催国は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本を推していたFIFAのアベランジェ会長の会長派と、欧州FIFA理事派の勢力が、次期会長職を巡って対立し始める。アベランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは、日韓の共同開催を強く推進、南米の会長派は日本単独開催を支持し、アフリカ理事らの動向が投票を左右することとなった。こうした状況の中、日韓共催案がいよいよ現実味を帯び始める。
直前になって欧州理事らが、欧州リーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派となった。開催国を決定する投票日前日の定例理事会前のパーティー会場で、アフリカ理事らとの歓談から、趨勢を悟ったアベランジェ会長は、定例理事会で日韓両国による共同開催案を自ら提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。
結局、投票を待たずして、1996年5月30日FIFA理事会は、「ワールドカップは単独開催」という規則を無視し、FIFA事務局長のジョセフ・ゼップ・ブラッターの名で、ホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し日韓共催を打診する文書を送った。欧州アフリカ理事らの動向を掴めなかった日本はまさかの共同開催決定に涙を飲んで受け入れを表明。翌日の5月31日、FIFA、日本、韓国による共同開催決定の会見が開かれた。日本が受け入れを拒否した場合は、韓国の単独開催か、開催地決定の延長と中華人民共和国での開催の可能性があった。決着はアベランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物でもあった。アベランジェ会長は名誉ある退席を選んだのである。程なく会長職を引退した。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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